プロフィール沖雅也 その1


沖さんの後援会が発足したての頃、「プロフィール沖雅也」という小冊子が配られた。

1.ポエム&まさや
自作かどうかは不明だが、詩が紹介されている
2.特集 『光る海』
本読みの様子と写真。妹役の石川さゆりが後方に映っている
3.まさやとおしゃべり
ファン代表がアイドルまさやとおしゃべり!
4.青春しぐれ
いきなり場違いなフンドシ姿。何でこのページがカラーなんだ
5.アラカルトまさや
『雅也の一日』を紹介。この頃はまだハイライトを吸っていたのね
6.ただいま特訓中
江東劇場のワンマンショーに備えて歌と踊りのレッスンをするマサヤを紹介
7.あなたとまさや
ファンからのお便りを紹介。マサヤがひとつひとつに返事をしている


このパンフレットを作るにあたって編集部が沖さんに内容についての意見をきいたところ、「普段は忙しくていただいた手紙に返事を書けないことも多いので、なるべくファンの方と語りあったり、ぼくが話しかけるページを多くしてほしい」という返事だったという。優しいじゃないの。
とにかく、これを手にした時は、ほとんど一日中眺めていたのを覚えている。今まで知らなかった沖さんの素顔が垣間見えるような気がして、何度も何度もページを繰った。


プロフィール沖雅也 その2


3.まさやとおしゃべり
ファンからの質問を直接受けるというコーナーで、高校一年生のHさんが質問している。以下はその内容。

場所は旧フジTV前の喫茶店。
H:こんにちは、沖さん、今日はファン代表なの。とんでもないこと聞くかも知れないけどよろしくお願いします。
沖:こちらこそよろしく。
H:ゆうべも「光る海」見たけど、沖さんとても良かったわ。ああいうドラマはやっていてどうですか?
沖:うん、わりとすんなり入っていけますね。世代が同じだし、テーマが一般的でしょう。
H:野坂孝雄(管理人注:「光る海」での沖さんの役名)という人物についてはどう思いますか?
沖:そうねェ。どても優等生的だと思う。どっちかというともう少し八方ヤブレな情熱を持った人物の方が好きだけど、ぼくなりに、あの主人公を演じていこうと思っています。
H:さすが我らの沖さん!ところで雑誌に趣味は盆栽と釣りって書いてあったけど、変わっていますね。
沖:うん。みんなにいわれるんだ。年よりじゃあるまいしって。でもどちらも心がやすらぐし、年をとっても続けられるだろう。(笑)ところできみはどんなことが好きなの?あっ、コーヒー飲まないとさめちゃうよ。
H:どうも。映画みたり、ボーリングするくらいかしら。沖さんボーリングは?
沖:なかなかひまがないけど、たまに気晴らしに行くよ。アベレージは160くらい。
H:沖さんならカッコいいでしょうね。身長や体重教えて下さる?
沖:身長183センチ、体重70キロ。こどものころからノッポだった。まだ伸びるんじゃないかと心配なんだ。(笑)
H:せりふはいつどうやっておぼえるんですか?
沖:別に時と場所は選ばないんだ。自分で言うのはおかしいけれど、おぼえようと思えばわりとすぐ入ってしまう。
H:いつも素敵な洋服着てるけど、何色がお好きですか?
沖:白と黒。はっきりした色がすき。それに赤とか黄色をアクセントとして使ったりします。
H:どこで作るの?
沖:青山のテーラー・ジェルマンが多い。街でみつけてパッと買うこともあるけどね。
H:へんな質問しますけど、沖さん下着やくつ下なんかの洗濯はどうしているんですか?
沖:もちろん自分でやりますよ。午前中仕事がないときなんか、コツコツとじゃないジャブジャブとね。(笑)わりと好きなんですよ。
H:へぇー意外だわ。盆栽と釣りと洗濯、テレビでみるスカッとした沖さんのイメージとはどうしても一致しないわ。
沖:でも年中やっているわけではないですよ。これだけ育つには他にもいろいろやりましたからね。(笑)学生時代はバスケットが得意だったし、ボクシングなんかも大好きです。
H:ひまができたらまず何をしたい?
沖:もちろん旅行。仕事をはなれてまだ知らない日本のよいところをたずね歩けたら最高だと思う。故郷の大分にも年に2、3回は帰りたいし。きみの故郷はどこ?
H:小田原なの。私も九州あたりに家があるといいと思うんだけど。ところで少しかたい質問をしますけど、尊敬している俳優さんは?
沖:宇野重吉さん。とにかく味があって深みがあって、ぼくなんてどう逆立ちしても真似できない。偉大な人だと思う。
H:いま共演してみたい俳優さんは?
沖:和田アキ子さんかな。彼女ならタッパもぼくといい勝負だし。(笑)
H:和田さんみたいなタイプの女性がお好きなんですか?
沖:誰にでも好かれるタイプだろ、彼女は。それとぼくはいつまでも心のかわいらしさを失わない人が好きだなあ。
H:まあ、よくおぼえておかなくちゃ。(笑)
(沖さん中座。中略)
沖:どうも失礼。「光る海」の稽古スケジュールに変更があって、あと20分でリハーサル室に入らなければならないんだって。
H:あら大変だわ。スピードを上げなければ。エート、あと何を聞くんだったかしら。
沖:まあ、そうあせらずにおちついて。(笑)
H:今までで一番悲しかったことと嬉しかったことは?
沖:「八月の濡れた砂」の撮影中にオートバイに乗って怪我をしたこと。嬉しかったのは、そのときファンの皆さんから沢山のお見舞いのことばや、励ましをいただいたこと。あのときのことは一生忘れられません。あの事故のあと、ぼくの運命が開けてきたようなものだし。
H:最後に、これからどんな作品に出演したいと思っていますか。
沖:どんな作品でも、自分を試している時期だし何事にも取り組みたい。でも同じやるなら沖雅也が出演したからこそ良い作品になった、といわれるようなものを残すよう努力していきたいと思います。
H:お忙しいのに今日は本当に長い時間ありがとうございました。あっという間に時間がたっちゃって、今夜寝る前に、もう一度沖さんと何をしゃべったか最初から思い出してみるわ。これからもよいお仕事をどんどんして下さいね。
沖:ありがとう。じゃ君も元気で。
といって手を差し伸べHさんと握手。あまりになに気なくてカメラが間に合いませんでした。

沖さんが対談番組に出た時にいつも思ったことだが、沖さんは気配りの人であった。
スターでありゲストであり、自分が質問される側であること十分に承知しながら、相手にもさりげなく質問をして話題を振る。
自分だけが暴走しないように気をつけているのは沖さんの頭の良さかも知れないが、
周囲を全く顧みずに自分のことばかり話す若者が目につきやすい昨今では、そんな沖さんに好感と同時に、
いきなり大人の世界へ飛び込んでしまった者が身につけた世渡り術のようなものを感じる。
だからといって、媚びるような態度はないのだ。むしろ誠実さが感じられ、目上の人からも好感度が高かったようだ。
もちろん、この頃はバリバリのアイドルだった沖さんだから、優しいお兄さんという雰囲気を保って話していたには違いない。
尊敬する俳優として挙げた宇野重吉さんとは、その後「ふりむくな鶴吉」で共演している。
宇野さん演じる夢斎先生が「なあ鶴や」と声をかけるシーンが今でも目に浮かぶような、素敵な共演だった。
和田アキ子さんとも、その後「バーディー大作戦」で共演している。確かにタッパ(身長)もいい勝負だった。


雅 創刊号


「雅也のすべて」

○子供の頃、十二年間大切に育てた黒髪を、中学に入ると同時にブツリ、
バッサリと丸坊主思わず涙が…あー、悲しかったなー。
○うさぎ追いしかの山、こぶな釣りしかの川故郷の川では紅マスと鬼ごっこ、
ちびのくせに速いこと速いこと、でも最後に笑うものはエッヘン、
…一方山では、ビワやリンゴやナシをもぎに枝から枝、木から木へと…
これはちょいとオーバーでした。
○エッ、学校の成績はどうだったって、もちろん君と同じさ、
でもね、小さい頃頭の良い人間は大きくなるとだめなんだって。がんばりましょう。
○小学校四年の時からバスケットを始め、飛んだりはねたり、そのせいかな、
背が伸びたのは。東京へきてからはボクシングもやったし、たくましいですよ!
○僕の左目0.7、右の目0.8、両目合わせて1.5、一人前でした。いや、半人前かな。
○最近の若者は体はでかいが、ガイ骨とデブばかりだって、イチ、ニイ、サン、
イチ、ニイ、サン、がんばらなくっちゃ、がんばらなくっちゃ、君もがんばって!
○去年の夏、映画の撮影中、ケガをして右肩骨折、いやー、いたかったねー、
それにあのギブスを切る時のあのノコギリの音、
思い出しただけでもゾクゾク(背中の音です)
○夜遅く仕事から帰ってくると、静かな湖の中の小さな島で、
一人星空をながめながらなんて思いますが、
でも、今住んでいる所は、どこへ行くにも便利だからがまんしよっと!
○服装にはちょいとうるさいんだ。でも、シャツにGパンスタイルが一番好きだな。
気取らなくて、自由で、そえrは何といっても、男性的だもんね、
君もそう思う、そうでしょ、そうだよね。ホーラやっぱり同じ意見だ、よかった。

「雅也とは」

本名    楠 城児
生年月日  S27.6.12 19才
出身地   大分県別府市
特技    運転・バスケット
身長    183cm
体重    70kg
前科    なし(でしょうね)

◎性格   一.しんぼうづよい
      二.まじめ
      三.むてっぽうはしない
      四.経済かんねんはない

◎趣味   盆栽・つり

◎おしゃれ 流行のせんたんはおわない
      自分にアレンジしたおしゃれ
      余りお金はかけない

◎好きな色 ブルー系統

◎スポーツ バスケット・水泳・空手・ボクシング

◎収集品  いろんな犬のぬいぐるみ

◎一番うれしかった時  デビューした時

◎一番かなしかった時  おじいさんが死んだ時

◎好きな食べ物     肉

◎きらいなものは    納豆

「これが七二年の雅也だ」

昭和四十三年十月、この世界に入って三年半、仕事も快調に進み、
四月からは四つの番組にそれぞれ違った役でとりくんでいきます。
二月には歌も吹込み、テイチクユニオンレコードより 三月二十五日発売です。
芝居に歌にと、若い力をふるに(原文ママ)発揮し、
テレビのブラウン管に映画のスクリーンの中に新鮮な姿を、
皆様の前にお送りいたします。
アクションにコメディにと、巾広い、大きな役者への第一歩として七二年は、
全情熱をそそぎ仕事にとりくみます。
内に秘めたる何かを見い出す為に、今日を明日を常に新たな気持で生きる男、
それが七二年の沖雅也です。

「ボクのおしゃれ」

ボウシ      5点
スーツ      15着
ジャンパースーツ 5着
Gパン      5本
Yシャツ     20枚
Tシャツ     20枚
セーター     15枚
マフラー     70枚(プレゼント)
靴        15足
靴下       30足

「ひとりぽっちのボク」

43年1月僕は九州大分の実家を飛び出し東京へ向かった。
別になんの目的も持たなかったが、ただ若気のいたりで、
何かドデカイことをやりたい、ただ自分で独立して一つの物を作りたいと
思ってのことだった。
その考えも甘いものだと上京後すぐにさとった。
御徒町の小さなサッポロラーメン屋の店員、文明堂のクッキーを配達する車の助手、
そして池袋のバーテンと年をごまかしたりして働いた。
当時はその日の金にも苦労する毎日だった。
なにしろそれまで苦労のくの字もしらなかい僕には
当然非常にきびしい毎日であったからだ。
故郷を離れる時の希望も日がたつにつれうすらぎ、もしかしたらこのまま
僕の一生が終るような気がした時も度々あり、苦しんだものだ。
しかし幸運の女神は僕を捨てなかったと思う。
池袋のバーに勤めていると或るファッション・クラブの社長に
モデルの仕事をたのまれるととんとん拍子に運がつきはじめ、
モデル界はハーフ全盛のおりから当時は仕事もなく
運だめしに日活のオーディションを受けたら思わぬ合格。
そのまま10月には『純潔』で丘みつ子の相手役と幸運が向いてきたのだった。
そしてその作品もアップし、初の試写会の日、友達とつれあって試写室に行き
自分の映像を見た時、演技はメロメロ、芝居になんかなってはいなかったけど、
無しょうに涙が次から次へと流れ、止めることができなかった。
隣にいる友人も共に泣いてくれた。
口では簡単にオレは絶対何かをやるんだーと思った所で、
けっしてそれを実現することはむずかしい。
ただ僕の場合は運があったからだと自分自身は思っている。
いま自分の姿が映像にうつり全国に封切られるのかと思うと、
黙って飛び出し便りも出さずに過した自分の両親に
やったんだゾーという無言の頼りが喜びをさらに高めたのだ。
この時、僕は一生できることならこの世界で行き、与えられたチャンスをものにし、
一人前の俳優として世間から認められる人間になろうと誓ったのだった。


出会い
        ボク中学三年生の作品

夜の街に
足を止める時
風が耳もとで
そっと囁く
明日になれば
悲しみも
朝日にとける
朝日の向うに
空が輝く時
そこに
喜びが流れる
夜の街に足を止める時
風が耳もとで
そっと囁く

「結び」

沖雅也です。この度、皆様のご協力を得てここに私の後援会が出来ましたことを
厚くお礼申し上げます。
これからは、皆様と共に、楽しく、話し合う機会も出きますし、
その日をいまから待ち望んでおります。
私も、より一層、皆様の期待にこたえられるよう努力いたします。
又、講演会の発足が遅れ、皆様に大変、御心配をおかけ致しました事を、
お詫び申し上げます。
これからは皆様と共に、楽しい後援会として育てて行きたいと思います。
どうぞ、末永くよろしくお願い申し上げます。

沖雅也(サイン)

何だか今読むと微笑ましい情報や文章が満載だ。
「ひとりぽっちのボク」は、考えさせられる部分もあり、
中学三年の時の詩は、15歳で夜の街に繰り出していた
寂しい少年の姿が浮かぶ。
本当に一番悲しかったのは、おじいさんが死んだ時だろうか。



雅 №2


「雅也と共に 全国縦断後援会発会式開かる」

会員の皆さん御無沙汰致しております。
皆さんも、お元気にお過ごしのことと思います。
三月十二日、広島に始まった後援会の全国縦断発会式も、五月五日の福岡をもって
無事終わりました。
これも皆様のおかげと感謝しております。
今、ペンをとりながら、皆様と過ごした発会式の思い出が目の前に浮かんでまいります。
広島の時は前日のキイハンターの撮影で足を痛め、ビッコをひきひき、
でも皆さんと話しをしている内に足の痛みも忘れてしまいました。
富山では、駅前で大勢のファンにかこまれ、嬉しいひめいをあげ、
名古屋では会員の人にバラの花を渡す時、トゲで手を切り、
美しいものにはトゲがあるなんて、あらためて考えてみたり、
東京では、会場が大きいので、一人でも多く出席して下さるよう祈ったのに雨が降ってきたり、
初めて見る札幌では、ラーメンの味に舌づつみを打ち、
大阪では、初めての僕のワンマンショーに、名古屋から、応援にきてくれ、
大阪の会員の方達と一緒になって応援して下さいました。
おかげでショーも無事に終り、皆様に喜こんでいただきました。
高松では、帰りの空港で別れの涙にむせび、仙台では、デパートの屋上でサイン会
屋上が、人、人、人でうずまり、皆様のはげましに、今一度、気持をひきしめ、
福岡では、故郷の街並をそこに見いだし、思わず涙が出そうになったり、
そして、どこでも皆さんの暖かい歓迎にあい、僕は本当に仕合せだとつくづく感じました。
皆さんに会えて、とてもよかったと思っております。本当にありがとう。

沖雅也


「雅也とは」

雅也、よかったなあ!
仕事に恵まれて、同じ日活時代、昼飯も食えない時があったよなぁー。
今になって思うと、苦労を苦労と思わない雅也の性格がよかったのだろう。
これからも苦労した時代を忘れないで、一生懸命仕事に打ち込めよ!
これからは、俺も雅也においこされないようにがんばるよ。
おまえもなー。
渡哲也

雅也さん、そう……一言でいうならば、頼りがいのあるお兄さん。
どんなに朝の早いお仕事でも、集合時間より早く来て、時間にはとてもきちょうめんですね。
又お仕事をする機会があれば、ぜひ御一緒させてね。
吉沢京子

沖君。
又、一緒の仕事(青春をつっ走れ6/19日放送)が出来て嬉しいですね。
沖君の最近の活躍を見ていると、僕もファイトがわいてきます。
レコードも出したそうですね。お互い負けないよう、がんばりましょう。
森田健作

沖君、キイ・ハンターの出演おめでとう。
若いわりに君は大変礼儀正しく、芸能人にありがちなルーズな面がないので、おどろきましたよ。
これから、いつまでも今の気持ちを忘れずに、アクションにも大活躍を期待しています。
千葉真一

沖君、この前、君の初めてのレコードを聞きました。
明るい感じの曲で、いい歌ですね。
芸能界のスタートが一緒だった君と僕。
沖雅也、仲雅美、とマスコミの人達がライバルとしていろいろあつかってくれたおかげで、
君と僕はスターへの階段を一歩一歩上がって来ました。
これからもライバルとして、お互いにがんばっていきましょう。
仲雅美

沖君、僕はあとで聞いたんだけど、十九才だって?……びっくりしたなあ!
今迄、大変苦労したんだってね。それが今の君にプラスになって
礼儀正しく、いつみてもフレッシュでうらやましいなー。
キイ・ハンターの先輩として、これから仲よく仕事をしていきましょう。
谷隼人

雅也の誕生日

雅也のラブラブショー

はずかしくって はずかしくって
















結び

沖雅也です。皆様の御協力を得て私の後援会は発足して早や五ヶ月、
月日の立つのをこんなに早く感じたのは生れて初めてです。
全国縦断後援会の発会式では時間の関係で皆様とお話する機会が短いひとときでしたのが
今でも残念でたまりません。
でも日本国中を歩いて(歩いてじゃないや飛行機と汽車で)みて、
私も責任重大であることをひしひしと胸に感じている今日この頃です。
これからは役者として 又、歌の世界に一歩足をふみいれたタレントとして、
力の限り自分のため、皆様のために一生懸命頑張るつもりです。
どうぞ皆様も身体に気をつけ、元気で勉強にはげんで下さい。
尚、沖雅也の後援会員として、末長くよろしくお願い致します。
沖雅也(サイン)


雅 №3


残念ながら私が後援会に入会した時は、すでに「アイドルまさや」はその人気がピークを迎えていた時だったので、
後援会報「雅」は№3、そして5からしかもらえなかった。
在庫があれば1と2もあげられたのに、と済まなそうに事務所のお姉さんが言ってくれた。


1972年9月発行のこの会報には、8月12日に故郷大分で錦を飾った沖さんの姿が紹介されている。

母校を訪れて恩師や同級生と再会しているが、沖さんはいかにも「故郷に錦を飾る」といったスターちっくなパンタロンと
大きな襟のジャケット姿だ。
翌日は大分文化会館でワンマンショーの舞台もあった。
(この模様はLP『沖雅也オンステージ』というタイトルでLP化。詳しくは「レコード一覧」を参照)
郷土公演記念パーティーなるものも開催され、蝶ネクタイ姿の沖さんが実父・宗生氏と日景氏に囲まれて乾杯している写真もある。
『雅也の一週間』では愛車紹介の他、散髪をしてもらっている姿や靴屋で靴を選んでいる姿もある。
ちょうどレギュラーを4本も抱えていた時だったので、その「小さな恋のものがたり」「キイハンター」「未婚・結婚・未再婚」
「1・2・3と4・5・ロク」のスチール写真。そこには表情豊かな20歳の青年がいる。

こうして写真満載なのは嬉しいのだが、沖さんの言葉がひとつもないのが残念だ。
見開きでは私が修学旅行で猿に襲われた高崎山に立っている。あそこの猿の根性はハンパじゃない。
沖さんは大丈夫だったのだろうか。


雅 №5


後援会報「雅」の№5は、成人した沖さんへのインタビューと出演中の「光る海」や「嫁の縁談」の紹介とともに、仁丹のCM撮りで行ったオーストラリアでのスナップが出ている。

「雅也にきく」

編集部: ご成人おめでとうございます。大人になられた現在の心境はいかがですか?
沖雅也: そうですネ-。この世界に入ったのは10代のなかごろですが、男として切り開いてきたつもりです。これからも同じだと思います。もっともっとガンバリますけど…。
編集部: 成人式はどこで迎えられましたか?
沖雅也: 千葉県の行川アイランドで僕のショーの時でした。
編集部: もし沖さんに恋人ができましたら…?
沖雅也: とにかく“オレについて来い”の一言だけです。
編集部: お仕事の面ではどのようにお望みですか。
沖雅也: 10代、20代、30代、…代、とあらゆる年代の人たちから好かれる役者になりたいことです。
編集部: 最後に、成人になられた後援会の人たちに一言!
沖雅也: “おめでとう”お互いに一歩一歩を見つめ、精神的にも、人間的にも成長して、スケールの大きい大人になりましょう。これからも応援して下さい。僕もガンバリます。
編集部: 今日はお忙しいところをありがとうございました。“イキの長い役者”になることをお祈りしています。


雅 №12 (昭和49年4月1日発行)

「雅也のある日その時」

○月○日
本日のスケジュールは、「幡随院長兵衛」午前7時開始~11時30分、東映「バーディー大作戦」14時~20時30分、国際放映「青葉繁れる」ポスター撮り22時~24時30分…。
午前5時起床、5時55分自宅出発、6時15分国際放映着、時代劇なので扮装がたいへん、沖クンの速さにはビックリ、6時45分にはセットに入り、開始を待っている。「おはようございま~す」大原麗子さんたちが入ってくる。さて開始。あい間に平幹二朗さんたちと談笑。何を話しているのかなぁー。
11時を過ぎたら、女の子たちがキャーキャー。係の人に『どうやって入ってきたの?』と聞かれ、『ヘイを越えて…』なんて言っていた。次の仕事が待ちかまえているので11時30分に終了、着替えをして東映撮影所へ…。「おはようございま~す」と撮影所へ入ったのが13時35分、風邪気味なので、スタッフの人たちが心配して、『大丈夫ですか?』『大丈夫ですよ、死にはしないから』なんて…。カメラの人が『少しやせたんじゃない?』『そうかなー、そう言えば足が少し細くなったかナ』……こうして20時30分に終了。「おつかれさまー」。
さて次は「青葉繁れる」のポスター撮りでアートセンターに向かう。雑談をしながら、六本木の現場に到着する。
「おはようございます」と入っていくと共演の人たちがズラリ。森田さんも入ってくる。
『やあ!よろしく!』と、かたい握手をかわして、すぐに着替えて控室で姉役の香山美子さんたちと談笑。
撮影中もわきあいあい。ポスター撮りを終了。『おつかれさまー』とアートセンターを出たのが、午前0時35分でした。


アイドル時代を過ぎた昭和49年(1974年)だが、まだまだ多忙を極め、追っかけのファンも多数いたようだ。4月のスケジュールが出ているが、『OFF』の文字がある日はない。
その追っかけファンの一人に「恋人が出来てもその子が可哀想だ」と言ったそうだが、これでは恋人どころか友達を作る時間もなかった??

「訪問日記」

ファンのスタジオ訪問レポ

2月16日(土) 管理人注:1974年
「幡随院長兵衛」の撮影を見に国際放映に行きました。
歩いているとチョンマゲ姿の沖さんがマイクロバスに乗ってきました。そして私たちがいることに気がつくと笑ってくれました。
バスから降りて一緒に写真を撮ったり、サインをしてくれたり、おしゃべりをしたり……とても楽しかった。
またバスに乗り、平幹二朗さんや共演の人たちとタバコを吸いながら、とても楽しそうにおしゃべりをしていた。雅也さんが恋人になってくれたらとても幸せなのになぁーなんてかなわぬ夢を見ていた。

3月22日(金)
また国際放映に行きました。朝からセットでした。
一生懸命な姿に何とも言えない魅力を感じました。記者が数人きていて、質問に対しても
「小松政夫さんとの“からみ”のところ、おもしろくできたらいいなぁ……」
なんて答えていて、とても男らしい感じでした。
平幹二朗さんや大原麗子さんと大声でしゃべっていましたけれど何を話していたのかな……。
帰りに、次の仕事が待っているのにやさしくサインをしてくれたり、「気をつけて帰りなさいよ」とやさしいお兄さんの感じでした。
すばやく着替えをすませると次の仕事へと車をとばして行った。

T橋「何事にもムダがないし、沖さんみたいな兄が欲しいなあー」
N島「スターの人って裏表がはっきりしている人が多いけれど、沖さんは“こんにゃく”みたい……裏表が同じだもの……」


雅 №14 (昭和49年6月1日発行)

「ついにNHK金曜ドラマに主演」

日活映画「純潔」でデビューしてから、今年で七年目になります。そしてついに長年の念願であったNHK金曜ドラマに主役として登場することになりました。
タイトルは「ふりむくな鶴吉」で、役は主人公の鶴吉……。鶴吉は二代目岡っ引き、自由で明るく、やさしさにあふれた好青年で、神田は鎌倉河岸に近い裏長屋に住んでいる。
岡っ引きの父の名人気質をきらい、さすらいの旅に出ていたが、父の死により岡っ引きの仕事を引き継ぐが、さすらいの旅で手に入れたウンスンカルタの絵模様の法被を着用し、父からの十手を受け取らず、江戸の町では十手無用の岡っ引きとして評判になる……。
「僕は時代劇の間隔にとらわれず、アミーバー風なブヨブヨとした若者が数々の事件と遭遇しながら、一人前になって行く過程を力いっぱい演じたいと思っています。今まで、民間放送では地域によって放送されない作品もあり、会員の皆さん全員の方に見ていただけない弱点がありましたけれども、10月11日からの1年間は、全国の会員の方々に同時に見ていただけますので、とても感激です」
と感想と役づくりを話してくれる沖さんでした。(5月10日)

「う~ん、今の若者との接点をうまく合わせて演じたいですね」
「共通するものがありますね」
「現代の若者をふまえた人物なので不安はありません」
と、写真にも沖さんのコメントが添えられている。

「雅也のある日その時」

5月14日(火)
今日のスケジュールは、「バーディ大作戦」が9時40分火葬場集合、終了後は横浜にロケ。ニッポン放送のラジオドラマ。フジテレビ「ラブラブショー」にゲスト出演(23時30分から)。
堀ノ内の火葬場に突いたのが9時10分、まだ誰も来ていない。近くを散歩しているところにスタッフが「おはようございま~す」とやって来る。
つづいて、谷隼人さん、松岡きっこさんたちが来ると、松岡さんが
「いつも早いのね。私、沖クンより早くに来たこと、一度もないわネ」
すると谷さんが、「若いモンは早いんだよナッ!」なんて言って談笑している。
ここでワンシーンを撮って次の撮影現場の横浜は山手町へ向かう。昼食抜きの撮影でした。20時5分に撮影終了。
次の仕事場は有楽町のニッポン放送で久しぶりのラジオドラマに出演。相手は秋吉久美子さん。余裕たっぷりの仕事ぶりにスタッフも感心している。
このラジオドラマは、新聞「おきまさや」が発行される頃には放送されていると思います。(5月18日、PM2時~4時の放送予定です)ドラマの終了は23時。
次はフジテレビへ向う。五木ひろしさんの「ラブラブショー」にゲスト出演です。
「おはようございま~す」と入って行くと、
五木さんが「やあ、しばらく。お忙しいところをどうも……。よろしくお願いしま~す……。」
「お元気ですか。ちょっとモノもらいなんか出したりして……」
握手をしながら話しているうちに、ディレクターの「おねがいしま~す」の声でスタジオへ……」
「おつかれさま~……」とフジテレビを出たのが24時15分。
どんよりした、今にも降りはじめそうな夜でした。


雅 №15 (昭和49年7月1日発行)

「雅也のある日その時」

6月12日(水)誕生日
全国の方々から心のこもった贈り物、祝電、電話をいただきありがとうございました。
今日から22歳……今年もマイペースでTVドラマに、映画にハッスルして行きますので、どうぞよろしくお願いします。

今日のスケジュールは、「幡随院長兵衛」のアフレコが8時30分から……。「バーディー大作戦」の撮影が15時から……。
11時45分、「幡随院長兵衛」のアフレコが終り、アフレコルームから出てくると、ファンの人たちがワァーとかけ寄り、『おめでとう!』……。守衛のおじさんが「若い人たちはいいナァー」なんてボヤいていた。
大泉の東映撮影所に向う途中で昼食をとり、撮影所に到着。入っていくと、ファンの人がいっぱいいる。
『沖さん、22歳になられた感想は?』と週刊誌の記者のように聞かれる。
『別に……、昨日と変わらないですよ。でも、歳をとるごとにうれしい気がするネ』
『バースディーパーティーはやらないんですか?』
『会員の希望者を募ってやろうと言っていたんだけれども、レギュラーの仕事が入ってダメになっちゃった。僕一人のために他のレギュラーの人のスケジュールがくずれてしまうので……ゴメンネ』とアフレコルームに消えて行った。
『沖クンいつ終るかしらネ』なんて喫茶室で話していると、アフレコが休憩になり、「沖サぁン!」と言うと「ヤァ!」とこたえながら喫茶室に入ってくる。
『お誕生日おめでとうございます』
『どうもありがとう。やっと30歳になりました』
なんてジョークが出て、わきあいあいあ……。 『アフレコルームに行ってみよう』と案内してくれた。
開始になると私たちがいることなど忘れている(クヤシイ…)ように、真剣な面持ちで取り組んでいた。
やがて終了し、『どうだった?』といいながら撮影所の出口まで送ってくれて、『またおいでネ、きっとネ』と言ってくれた。
『沖さんて品の良い顔をしてるのネ。お母さんがTVを見てそう言っていたけどほんとネ』と、最近会員になった人が言えば、『沖さんのファンの人は品が良いそうよ』なんて、みんなで感想をしゃべりながら帰って来ましたが、ほんとにステキだったワ……。(T記)

「雅也さんに…」
問「煙草は一日何本ぐらい吸いますか?」
沖「そうですね、ラークを本ぐらいですね」
問「睡眠時間はどのくらいですか?」
沖「日によって違いますが、朝7時開始の仕事の時は5時に起きて出かけますし、終了が午前1時なんていう時が多いですから平均5時間ぐらいです」
問「ファンへの願いは?」
沖「末永く心の支えであってほしいということです」

「別離(わかれ)」
先日ある番組で15年ぶりに幼なじみに会った。なにげなく別れた友だったが、いいようのない懐かしさがこみあげてきた。
今まで別離についてなど深く考えたことはなかったが、青春時代における“出会い”と“別れ”は、ドラマのプロローグとエピローグのように最初から約束されていると思う。出会いの時から別れに向って歩きはじめるが、めぐり会った日に別離を予感する人はほとんどいないと思う。なぜだろうか?……。この世に不変なものなどないと知りながら、別れの時がくるのを忘れようとする。喜びと哀しみ。始まりと終り。それはひとつのものでありながら、いろいろなドラマを演じる。卒業によって学園を巣立ち、恩師や友人との別離を経験すると思う。
幼い頃の別離は、自然に通り過ぎるが、青春にさしかかると、別離は愛惜の念をともなう。「また会えるだろうな」と言って別れた共に永久的に会えなくなるのはいくらでもあると思う。「きっと」という願望の裏には、これが最後かも知れないという怖れも含んでいるのだろうと思う。卒業と同時に生きる世界が変わる。新しい出会いが過去を忘れさせるのだと思う。
別れたとの友情によって何を得たか?どんな意味を持ったか?を考えるだけでも人生のプラスになると思う。 愛の終着駅が別れだという考え方は機械的だと思うし、愛に結論は有りえないと思う。生きること。考えること。行動すること。愛はそれらのすべとを包含すると思う。例え始まりと終りがあるとしても、それはメリーゴーランドのようにめぐっているのではないだろうか……。青春の日々は移りやすく、もろもろの中から一つの真実を求めようとする。昨日はっきり見えたものが、今日は見失っていることがある。いろいろな波紋をくぐり抜けて真実の愛に到着するまで、多くの“出会い”と“別離”を経験する。
子が親から離れ、青年が故郷を捨て、船が港から出ていくように、別れは道を切り開いていく序曲になると思う。青春は可能性に満ちた放浪の季節……。別れを恐れてはならないと思う。別れはゼロへの回帰ではなく、ゼロからの出発だと思う。青春に別離の痛みがなかったら、その青春にはうるおいがないと思うし、理性とひたむきなバイタリティー、そのために傷つき、流す血はどんなに残酷であっても美しく、若さの特権ではないだろうか……。
人生という舞台は、いっときたりとも同じ見せ場があってはならないと思う。限りない“出会い”と“別れ”が歴史を積み上げていくのではないだろうか……。
僕は、別居を悲しいものとは思わない。古い過去との訣別は、新しい世界を約束してくれるものであるし、また、全てを失うことも勇気であり、未来へのかけ橋となるだろう。
今日の“さようなら”から、明日の“こんにちわ”が始まるように、別離は新しく始まる道への出発点ではないかと思う。

「雅也と対談」

(ファンとの対談)
K「今まで出演されたドラマ、映画の中で特に印象に残っている作品は何ですか」
沖「それぞれ印象に残っていますけれど、特に『三四郎』と『必殺仕置人』の二つですね。」
K「今、楽しみにしていることは何ですか?」 沖「NHKの『ふりむくな鶴吉』の撮影に8月末から入るんですが、どんな鶴吉ににるか楽しみですね。見て下さいね」
K「洋服はどのくらい持っていますか?」
沖「かぞえたことがないんですが、どのくらいかな…、月に2着ほど作ります」
K「日本料理ではどんなものが好きですか?それと、西洋料理や中国料理ではどんなものが…?」
沖「納豆以外なら何でも好きですよ。特に肉料理が好きですね」
K「なにか得意な料理はありますか?」
沖「ミソ汁を作れるようになりたいんですが……。今のところは、ほとんど外食です」
K「日本茶はお好きですか?」
沖「あまり飲みません。コーラが好きですね」
K「事務所には月何回ぐらいでかけますか?」
沖『おやじの嫁さん』を撮っている時は、フジTVからすぐなので、合間には良く行きましたけれど、今はなかなか行けません。朝の4時半か5時頃にロケーションにでかけることが多いので……。2ヶ月ぐらい行っていませんね……」
K「これからもがんばって下さい。楽しみにしています」


雅 №16 (昭和49年8月1日発行)

「訪問日記」

7月11日(木)
友達と学校の演奏会に行く途中に東映撮影所をたずねました。
三時頃で、「バーディー大作戦」のセット撮影をしていました。
フーテンの寅さんと同じような服を着て、腹巻きをしてゾウリをはいていましたが全部赤で統一していました。
泥だらけになっての撮影でした。合間に私たちの所へ来てサインをしてくれたり、話をしたりしてはまた撮影に戻って……。
そのシーンは三時半頃で終わりました。M・Oと彫ってあるステキなペンダントをしていました。終わるとすぐにメーキャップルームに戻り、手足を洗い、お風呂に行きました。メーキャップルームの所で沖さんの番傘を持って待っていると、20分くらいして出てきました。
ドライヤーで髪をかわかしドーランぬって「やっと元の顔に戻った……」と言って私たちの方を見ました。
私たちが「雨がだいぶ降ってきたし、蚊に食われた」というと「中に入りなさい」とメーキャップルームに入れてくれました。
「かゆい、かゆい」と中で騒ぐと、「君たちは若いからおいしいんだよ。人間は20歳を過ぎると老化するからね」それを聞いていた友達が、「だから沖さんは蚊に食われないんですね」って言うと、急に沖さんは足をかいて「かゆいナァー」を言い出しました。(どういうことかなァ?)
私たちの学校の本を見せると「ああ○○音大」と知っているように言うので「知っているんですか?」と聞くと、妹さんから聞いたということで、何かうれしい気持ちになりました。それから5時まで話をして別れました。
私たちがバス停に行くとちょうど行ってしまったあとで、次のバスが来るまで時間がたっぷりあるので、夕食をしてから行こうと、近くのレストランに入りました。
入って見ると、ビックリしました。井上さん(当時の付き人)と関係者の女の人2人と沖さんが座っていたのです。沖さんもビックリした顔で私たちを見たので、「先に夕食をとろうと思って」と言うとやっと納得したようすでした。(演奏会に行くことを話してあったので)
私たちがカレーライスを注文して食べている間に、沖さんはポタージュスープ、サラダ、トースト、グラタンを食べ「ごちそうさま」と言ったので、もう終わりだろうと思ったら「バナナジュースね」と言ったので、友達と顔を見合わせてしまいました。夕食にはちょっと時間が早く、私はもういらないと小声で言ったら、「若い子はたくさん食べなきゃだめだぞ」と言われました。
私たちがお勘定を払って出て行こうとすると「気をつけて帰りなさい」と言ってくれました。『ときめき』の一日でした。
メーキャップルームでの会話で、ボーイフレンドの話が出たとき、私が沖さんは忙しくて恋人をつくる暇がないでしょ?」と聞くと、「暇もないけれど、いてもその子がかわいそうだ」って……。「でも、中学一年くらいの女の子をマスコットがわりに連れて歩くかな?20歳以上だと誤解されるからね。そのくらいの年齢が一番いいだろう」と言うので、「そんなことしたらただじゃおかないから……」と言うと、笑っていました。
沖さんと話しているとおもしろくて……。途中で歌を歌ったりして、とてもごきげんでした。私たちが演奏会に行く時間を気にしてくれたり、やさしかった。


雅 №17 (昭和49年10月1日発行)

「ふりむくな鶴吉」も2話、3話とVTR撮りも好調に進んでいます。
スタジオをのぞいて見ますと、共演の尊敬する宇野重吉さん、ハナ肇さん、スタッフの人達と和気あいあいとした雰囲気です。
デビュー以来の望んできたNHKドラマだけに、この作品に賭ける彼の意気込みはそうとうなものです。
ちょっとの空時間や食事時間にも取材でてんやわんや、見ていても気の毒なほど。
先日第1話の試写がありましたが、とても好評でした。芝居もさることながら、澄んだ目、カツラがよく似合う、きれいすぎるくらいの鶴吉だと評判でした。1話の放送をお楽しみに!
ある時、カツラを替えるので、はずしたままロビーを歩いていると、職員の人や清掃のおじさん達が「あれ!若いんだネ」と、素顔の沖さんにびっくりしたようすでした。
長身でハンテン姿なので、遠くからでもよく目立つ。
このハンテン、ウンスンカルタの絵模様の豪華なものですから、よけい目立ちます。
なにしろ、てんやわんやの一日でした。(T記)

10月11日放送分を一足先に写真集で載せてほしい、という要望がたくさん寄せられていますので、今月号はその要望にそって主に鶴吉写真集にしました。

(ファンからの手紙に対する返事)

お手紙ありがとうございました。
「ふりむくな鶴吉」のVTRもおかげさまで好調に進んでいます。
一年間をこの作品に賭けて行くつもりです。ぜひ感想をお寄せ下さい。
今、僕は古い民芸調のペンダントを収集しています。
以前、仕事でインドネシアに行ったときに質素な店でしたが、珍しい石でできた手作りのペンダントを見つけて以来、豪華なものでなく、古い感じの物ばかりを集めています。俳優仲間や知り合いの人達に頼んだりしています。豪華なものは多いのですが、古いものは意外に少ないんですね。
また、最近はちょっとした時間をみつけてはトレーニングセンターに通っています。気分が爽快になりますね。なにしろ一年間を鶴吉に打ち込んでいくためにも体力を養わなければなりませんので・・・。
では、また・・・。
9月10日
沖 雅也


雅 №18 (昭和49年12月1日発行)

「スタジオ訪問日記」

11月3日
ファンクラブの人達と一緒にNHKを訪ねました。
105スタジオがある第三フロントに着いたらちょうど沖さんがスタジオから出て来て『やあ、いらっしゃい』
この言葉にみんなも緊張がほぐれ、8ミリをまわしたり、おしゃべりをしたりしていました。

次のシーンに入るのでいっしょにスタジオに入りました。
一面にススキの生い茂った丘陵、雑草も木も川も橋も、105スタジオ内に組み立てられた屋外セットは全部本物です。セットの巧妙な作りにファンの人達も感心することしきりでした。

所は江戸の神田、文化文政の世、岡っ引きの父の生き方に反発して、さすらいの旅に出た鶴吉は5年ぶりに江戸に舞い戻って来ました。その鶴吉を待っていたものは父親の死、それをきっかけに鶴吉は岡っ引きの仕事を引き継ぎますが、十手は使わず、江戸の町で十手無用の岡っ引きとして有名になっていきます。

ドラマは岡っ引きとなった鶴吉の活躍と、揺れ動く若者の心、それにサスペンスを盛り込んだ捕物帳で一年間の長丁場です。

今日の撮影は12月13日放送予定の第10話『無明の辻』編、丘陵の上には濃い眉にキリッとした目元で、着流し姿もいなせな沖さんが立っています。

ファンクラブの山田さんの坊ちゃんが8ミリをまわすのですが、長身のため全身を写すのに四苦八苦・・・。
『ごめんね、ボク、お兄ちゃん小さくなれないんだよ』
と冗談をとばす沖さんに坊ちゃんは8ミリをまわしたままくるりと後ろを向いてはずかしそう・・・。

ヒゲもじゃのディレクターが、何台もすえつけられたカメラの前を走り抜けながら『ハイ、いきますよ。五・四・三・二・一』と合図、草むらで猪太郎役の戸浦六宏さん達とわたり合うシーン。そして二~三回、稽古が繰り返されて、いよいよ本番の声がかかるとスタジオの隅で出演者の顔をジッと見守っていたメークアップの人がセットの上に素早く駆け上がり、手にしていたパフと手鏡を出演者に渡しました。沖さんも手鏡に向かってパフでドーランの光を抑えます。パフから落ちる白粉が照明に照らされて白く舞うのがとてもキレイでした。

スタジオ内にはこれらのスタッフのほかにもたくさんの人々が立ち働いています。金ヅチをぶら下げた大道具を造る人、小道具を点検する人、セットの片すみで風を起こすための扇風機を回す人、そして乾いた洗濯物にスプレーで水をかける人(これは干した直後の感じを出すため)など、さまざまです。
それに加えて各誌のカメラマンや制服姿の案内嬢につれられた見学の人達がひっきりなしに出入りしています。

さて、いよいよ本番開始の合図がかかると、そんなスタジオ内がシーンと静まり返りました。本番が終るとまた次のシーンの稽古。
こんなふうに緊張と和かさの連続の中で撮影は着々と進められて行きます。ファンの人達もテレビに映らないドラマの陰の部分を初めて見て『おもしろい』『驚いた』と感心することしきり。次のシーンまでの合間に第3フロントで鶴吉の事とプライベートな事を伺ってみました。

『ふりむくな鶴吉は推理劇でもなく、ホームドラマでもなく時代劇の捕物帳でもないんです。江戸時代に生きた一人の青年の成長する過程を描いたドラマと言ったらいいのかな、失敗があり、成功があり、落胆したり、狂喜したりする鶴吉とそれにまつわる人々との触れ合いみたいなものを描いているわけ。ストーリーは現代に通ずるところがあるけれど、単なる現代社会の風刺だけに終らせたくない。まじめなドラマにしたいんですよ、僕は。制作の皆さんもそうだと思いますけど・・・』

沖さんは淡々とした表情で語り出しました。プライベートでは・・・。

『暇があればスポーツセンターなどでトレーニングをしたり、部屋で本を読んだり、食べ歩いたりしているんですよ』

とラークの赤い箱からタバコを抜き取り、おいしそうに煙を出します。
周囲の人が、彼はとてもきちょう面だと言うことに対しては・・・。

『きちょう面というより何事も一生懸命に取り組むということ、それが人間の基本条件だと思うんです。だから僕は俳優として、こうしなきゃいけないんだと一度思い込んだらその通りにするため、生活の全てに“かせ”をかけちゃうんです。例えば野放図にしていたいとか、遊び呆けてみたいという気持ちが起きたらその気持ちに“かせ”をかけて、その出口をふさがれたエネルギーのありったけを仕事にぶつける。僕にとって“かせ”は“かせ”ではないんですよ。俳優として、より新しい自分を築いていくために私生活に多少の犠牲は必要だと思うんです』

今、一番楽しいことは?

『僕は仕事をしている時が一番楽しいですね。人混みが嫌いだから、余り出歩かないし・・、でも俳優という職業は形として残らないものでしょ、舞台は同時性のものだし、テレビは同時性はないにしても一瞬で消えていってしまうものだし、長い人生の中に凝縮したエネルギーがパッと散るわけです。非常に残念だと思うけど、だからこそ一生懸命やらなければいけないと思う・・・』

自動湯沸し器のお茶を差し出すと、
『そんな気を使わなくて良いのに・・・ありがとう』
と次のシーンが待っているスタジオに消えて行きました。


昭和49年といえば沖さんは22歳。22歳でこんなに人生をストイックに語る若者を、私は他に知らない。
「一生懸命仕事はするが、遊びも一生懸命」だとか「流れに任せて・・」という言葉はよく耳にするが、
『生活の全てに“かせ”をかけ』て、『出口をふさがれたエネルギーのありったけを仕事にぶつける』だなんて、まるで武士道だ。
より新しい自分を築いていくために私生活に多少の犠牲は必要』とまで言い切った沖さんに、私は一生ついて行こうと思ったものだ。
俳優という職業は形として残らないものだからこそ、一生懸命やらなければいけないと語った沖さんは、
その凝縮されたエネルギーが詰まったものは形として残り、今でもファンが分け合っているのだということを知らない。
2005年大河ドラマ「義経」を観ていて胸を打たれたのは、弁慶はじめ家来たちの純情さだった。
来世でも主従であろうと呼びかける義経に、家来たちは何の疑いもなく大きく頷いている。
生まれ変わっても家来かい、などとは思わないのだ。生まれ変わってでも主を守りたい。彼らの胸にあるのは、ただそれだけだ。

今生にても殿をお守り出来なかった私も、来世こそはと願う。
そのためには、私自身ももっと一生懸命に生きなければいけない。この会報をここに写しながら、そんなことを改めて感じた。


雅 №19 (昭和50年2月1日発行)

「雅也の想い出の紀行文(美ヶ原高原)」

 小さい頃から、自然を求めての旅が好きで、学生時代からいろいろと出かけました。
 今は仕事に追われてなかなか行けなくなりましたが、僕の一番心に残っている、高原アルプスに行った時のめくるめく想い出を書いてみます。
 中央線松本駅の改札口を出て、夏の日射しがまぶしい駅前広場に立つと、そこから広い道が一直線にのび、そのはるかな突きあたりに頂上が三角でなく、平坦な形をした山があるのが、まず目についた。
「あれが、美ヶ原の王ヶ鼻ですよ」
 地図を買いに寄った売店の女の子に言われ、もう一度よく見ると、なるほど、山の形が西洋の王様の大きな鼻のかっこうに、なんとなく似ているみたいだ。
「今ごろは、蓮華やツツジがきれいでしょう」  売店の女の子が言うとおり、六月中ごろから七月にかけては、レンゲやツツジの群れが、炎のように真紅にこの高原を染めあげ、美ヶ原という名のとおり、高原がもっとも美しくいろどられる時期でもある。
 バスターミナルから発車した高原行きのバスは、松本城の天守閣や青空に浮かぶ北アルプスの山影を窓に映しながら市内を抜け、郊外の湯の里浅間温泉へと入って行く。
温泉街を通り過ぎると道はぐんぐん登りとなり、松本の町並みはすでに眼下に小さく遠ざかっていた。やがて、湖水に白樺などの樹影を静かに映しだしている美鈴湖に着く。美鈴湖はとても小さな人造湖だが、標高千メートルの所にある。
湖上や林間には夏を忘れる涼しさが漂っている。美鈴子から四〇分ほどで、終点の美ヶ原高原駐車場に到着した。
 ここから頂上の王ヶ頭をめzして歩き始めると、周囲は野鳥の音楽界がたけなわで、風がさやさやと渡り、足元の笹やぶからは、ホーホケキョ、ホーホケキョとウグイスが一羽、二羽と、明るい声でさえずっている。
ウグイスがこんなに間近でこんなに明瞭に鳴いたのには、一瞬、おったまげ、まてよ、ここは天下の美ヶ原なのだ。ウグイスごときがたばになって鳴いたとて、あたりまえじゃないか、と考え直し、再び歩き出すと今度は、ピピピ、チチチ、と小鳥たちの機関銃のようなさえずりが、天空から音の雨となって降り注いでくる。
 天狗の露地という、岩石が庭石のように敷きつめられた斜面を、頭上足下に小鳥たちの歓迎をうけながら二〇分も登ると、パッと目の前が開け、頂上の王ヶ頭に着く。二千三百十四メートルの高さだ。美ヶ原高原は二千余メートルと高さも高いが、何よりも、下界から眺めたままに頂上一帯は平坦で、視界の邪魔者が一切ないので、展望は三百六十度見渡せる。
月並みな言い方だが、眺望は、絶佳、雄大、荘麗といったところ。うっとりして気が遠くなるほどのものだ。
 西の方角、これはすごい眺めだ、日本の屋根ともいわれている日本アルプスの峰々が雲上にその高さを競い合い、稜線のあやなす雪の白さが、空と山脈の青さを明確に区切っている。常念岳と大天井岳の力強いさん山影。穂高連邦のたしかな量感。そしてその間には、槍ヶ岳がその名前のとうりに鋭い穂先を天空に光らせている。
 南の方角には、間近に迫る八ヶ岳の山塊。遠くうっすらと空ににじむ富士。そして、秩父連山、浅間山などなど‥‥。こちらも一等席の眺めが広がっている。
 北と東の方角も、山また山の連なり。日本中どこを探しても、これ以上の展望の良い所はないような気がする。
 霧の降る日、吹雪で荒れる日などに、道に迷うことがないようにと、鐘を打ち鳴らすという「美しの塔」は、高原のほぼ中央にあり頂上の王ヶ頭からだらだら下って三〇分のところにある。
美ヶ原高原の大部分は牧場に利用されていて、塔への途中の道すじにもたくさんの牛が放されていたので、牧歌的な風景を写真におさめていると、黒白だんだら模様の大柄なのが二頭、群れから離れてこちらに向って来たかと思うと、レンズの手前でピタリと止まった。レンズの中で目と目が合い、モー君が“うまく撮れよ”と言ったような気がして、あわててシャッターを押したが、どうしたって高原風景にモー君は欠かせないものの一つだろう。
 茶色の鉄平石という石で造られた美しの塔には、山の詩人・尾崎喜八氏の詩が刻まれている。

登リツイテ不意ニ開ケタ眼前ノ風景ニ
シバラクハ世界ノ天井ガ抜ケタカト思ウ
ヤガテ一歩ヲ踏ミコンデ岩ニ跨リナガラ
此ノ高サニオケル此ノ広ガリノ把握ニ尚モ苦シム
無制限ナオオドカナ
荒ツポクテ新鮮ナ此ノ風景ノ情緒ハ
タダ身ニシミルヨウニ本源的デ
尋常ノ尺度ニハマルマデ桁ガハズレテイル
秋ガ雲ノ砲ヲドンドン上ゲテ
空ハ青ト白トノ目モ覚メルダンダラ
物見石ノ準平原カラ和田峠ノホウヘ
一羽ノ鷲ガ流レル矢ノヨウニ落チテイツタ

 都会の艶のない自然を見るにつけ、あの美ヶ原のぬれた光の中の自然を思い出すこの頃です。

『学生時代からいろいろと出かけました』とあるが、美ヶ原高原の場所から考えて、上京した後の旅だったのだとは思うが、詳細にわたっての記述があるので、日記でもつけていらしたのだろうか。
『炎のように真紅にこの高原を染め上げ』『頭上足下に小鳥たちの歓迎をうけながら』など、洗練された文章も並ぶ。本来はとても文章力のある方だったのだ。


雅 (1978年4月発行)

拝啓
春暖の候、みなさまお元気ですか。
私は、お陰様にて元気で毎日を送って居ります。
二月の帝国劇場(管理人注:「花の巴里の橘や」のこと)では、沢山のご観覧、ありがとうございました。出演が少なく私の為に来て下さった方にはとても感謝して居ります。何ゆえ、お付き合いあっての出演でしたが連日満員で終了し喜こんで居りました。
あれから二ヶ月が過ぎ、私にとっても、全ての人々にとっても、此の四月を前にして忙しい日々に追われていたかと思います。
「四月」此の言葉を聞くと、何かの始まりがあるかの様な、重大さを感じます。
会員の方達も、四月を前にさまざまな、思考が頭の中を通りぬけ、それぞれの思惑が交差し合っていたと思います。
私達、俳優という職業も、四月を転換期に、新しいドラマの構成に追われて行くのです。一般企業で働く社会人も、学生として生活を送って居る人達も、それぞれが共通して、いわば規則的な、時期の習わしの様なものを感じさせられる。
当然の出来事の様にやって来ては、喜こびや、悲しみを人々に与えて行く、社会人にとっては、年毎に味わう先輩としての責任感を自覚させられ、社会人として、上手に橋を渡らなければならない事を認識する。そして、学生には学生としての試練を乗り越えなくてはならない。
入社や進学する為の試験が待ち受け、XXXXそれぞれが、違った意味の不安や期待を迎え、頭の中で渦を巻く。
会員の中にも、難を乗り越えられなかった人、そして何らかの形で条件が合わず此の四月という転換期を逃してしまった人も居るでしょう。しかし、私達の生きて行く過程には、終りという言葉は無いと信じて居ます。
また新たな気持ちで、希望に躊躇する事無く賭けて行ける若者で有りたいし、有ってほしいと思って居ります。
そして私は、此の時期を契機に、更に挑戦出来る俳優に、情しまず努力します。
四月四日から始まった“大追跡”
もう一人の乗客に継ぎ、またも刑事役ですが、味の違いに工夫しているつもりです。空手等のアクションつきで、こうして体を動かせる事に喜こびも加わって居りますが、ご覧頂けているでしょうか。勿論、好き嫌いの問題は別にして、多種多用な役を数多く挑戦出来れば幸いですが、今は、体一ツでは足りない程です。
毎月入って来る呉服ショーでのサイン会等、九月頃に上映されるという東宝の「ブルークリスマス、信子の部屋」の撮影を、“大追跡”の合い間に追われ、時間の足りなさと、体がもう一ツ有ったらと思っているくらいです。すべてをコンスタントに営む事が出来る私に成る事を、頑張って居りますので、みなさまもどうか暖かい応援と、期待を忘れず、宜しくお願い致します。
私も、みなさまと同じ若者で有り、同じ青春を、私は私なりに送っております。目的への歩みは、個々によって違うでしょうが、共に歩いて行く姿は同じです。此の時期を契機に、私もみなさまと共に肩を並べて頑張ります。
どうか沖 雅也、そして“大追跡”宜しくお願い致します。
一九五二年六月十二日生
日景城児
(原文のまま)

今読むと、なかなか考えさせられる文章だ。
まず、この会報が発行される前に、私は事務所に遊びに行っている。そこで、会報に載せるファンレターを書いてごらん、沖さんに返事をしてくれるような挨拶を書いてもらうからと言われた。
私の拙文には大学受験に失敗したことが書かれていて、沖さんは律義にそれに返答する内容を織り込んでくれている。この会報を手にとった時の胸のときめきと言ったら喩えようもなかった。

「しかし、私達の生きて行く過程には、終りという言葉は無いと信じています」
その言葉にどれだけ慰められたことだろう。今読めば、「それなら何故・・」と言いたくなる人もいるだろう。だが、私は「終りはない」と今でも信じている。

また、多忙ぶりも書かれている。こんなスケジュールがかなり長期間にわたって続いていたし、この後も続くことになる。「お付き合い」の仕事を断るほどには出世していなかったということか。だが、それが沖さんの病気を発生させる一因になったのかも知れないと思うと、痛々しい気もする。
最後に生年月日まで書いて「日景城児」と結んでいるのが珍しいが、それもマスクをはずして素顔を見せてくれたような嬉しさがあった。日景城児が沖雅也をよろしく、と頼んでいるのだから。


雅 (1979年1月発行)

「十二月七日 沖雅也とファンの集い開催!」

お天気も上々…会場である青山ダイヤモンドホールには早くからファンの方々が到着し、女性ばかりなのでかなり花やいだムードです。学生さん、お勤めの方、お子様連れの奥さまもみえます。東京近郊の方が85名、遠くは青森、四国からも駆けつけて下さって総勢112名!
司会は同じ事務所所属の俳優仲間、三景啓司さん。

沖さんはまだかなぁーとざわざわ、皆さん落着かない中、お待たせしました!拍手に迎えられて、スーツに身を包んだ沖さん、さっそうと登場です。

まずは、沖さんの挨拶があり、すぐ質問コーナーに進みました。仕事のことを初めとしていろいろな質問が出ましたが、ちょっと気になる部分を二~三あげてみると…。

Q「結婚は何歳位?」
A「ウーン、40過ぎかナァ…」
Q「どんな女性が好きですか?」
ちょっとおどけてA「女性ならどなたでも…」
これには場内大爆笑。注1)

一段落したところで、次は抽選会。沖さんが抽選箱からカードを取り出す度に、皆さん一喜一憂の表情…でもご安心下さい、今日は全員空くじなしになっています。景品はポスター、陶器の人形、歌にちなんでランプあり…とその他ももり沢山でした。

さて…次は、沖さんが各テーブルを廻ります。写真を撮ったり、サインをしたり…でも皆さん、とてもおとなしくて…。フルコースのディナーだったので、緊張しちゃったのかしら。

最後は、新曲「裏通りのランプ」を歌ってお別れです。アッという間に過ぎてしまった二時間でしたが、お楽しみ頂けたでしょうか?会場出口で一人一人の方と握手をしてお別れしている沖さんの姿をみながら、あるファンの方曰く、「沖さんて、クールで無口な方だと思っていたけど、全然違うの。気さくで優しくて、すてきな人ですネェ…これからも頑張って応援します。」 皆さん、各々沖さんへの思いを胸に、会場を離れて行かれたようでした。

注1)沖さんは好きな女性のタイプをきかれると、必ずこう答えた。女性にタイプはない。必須条件は女性であること。
こういう人、と決められてしまうのが嫌だということだった。


雅 (1979年1月発行) その2


灰色のアスファルトの道が白く凍って輝き、コートのえりをたてて息をはきながら行き交う人々……パリの冬は厳しい。
後援会の皆さん、如何お過ごしでしょうか。
一九七九年の夜明けを、僕はこの凍てつくようなここパリの街で迎えました。今年は寒波襲来とかで思いの外寒く、連日零下○○度。それでも一日と休まず散策し、パリの空気を……古都の香りを味わっているところです。仕事を離れて自分自身を見つめることの出来る時間……それがここでの生活といえるかも知れません。実に素晴らしい所ですョ……パリは! サァ、東京へかえったらバリバリ仕事をやるぞ!
一月からは、日本テレビの「細腕一代記」と「姿三四郎」の撮影があり、四月から始まる同じく日本テレビ(日曜夜8時~)の「俺たちは天使だ!」という新番組に主演が決まっています。この「俺たちは天使だ!」は、青春ものプラスサスペンスアクションということで、僕の役は私立探偵 - 麻生雅人。現代の若者に生きる活力を与えるような爽快な男のドラマです。是非御覧下さい。
テレビの仕事の他にも呉服関係のサイン会、ゴールデンウィーク公開予定の東宝映画「乱れからくり」のゲスト出演等、おかげさまで多忙な年になりそうです。
今年もせいいっぱい頑張ります。いい仕事をして、映像を通して自分の中にあるものを拡大していき、俳優として、更に人間として、一歩でも半歩でもいいから成長していければと思っています。
皆さまも仕事に学業に、自分の青春をせいいっぱい謳歌して下さい。そして、今後ともよろしくご支援の程、お願い申し上げます。

一九七九・一月
パリ・Cホテルにて

沖 雅也


1979年6月 後援会報より

スタッフによるものか、ファンの投稿かは不明だが、撮影の様子がわかるレポート。

「俺たちは天使だ!」撮影所訪問

今日は「俺たちは天使だ!」の撮影見学をさせていただきました。
国際放映の門をくぐり、グレーの建物が立ち並ぶ中を、キョロキョロしながら目ざすは天使のセットです。
扉をあけ、又更に扉をあけると、丁度「麻生探偵事務所」の裏側の所に出ました。薄暗い中をミ右手へちょっと歩いて、事務所の入り口のドアから中をのぞくと、向こう側に明るいサンルーム、ご存知の鳥篭がつってあり、応接セットが置いてある部屋の中をスタッフの人が忙しく動き廻っていました。
帽子をかぶってカメラの横でいろいろ指図している方が土屋監督のようです。

沖さんは?とみると、紺の背広に赤の蝶ネクタイの衣装もぴったり決まって、監督さんのところに来て何やら打ち合わせ中。多岐川裕美さんや長谷直美さんの姿もみえます。
柴田恭兵さんは途中でマネージャーと一緒に車で撮影所入り。

ちょっと歩くとぶつかりそうな狭いセットの中を、気を使いながら足を運んでいくと、あじサンドで有名なあの台所のセットに出ました。
その隣りが、沖さん扮する麻生探偵が寝泊りしているベッドのあるお部屋。共にとっても小さくて可愛いお部屋です。(画面でみると広そうですけれど・・・)

本番の声がかかると、それまでザワザワしていたのもシーン。自分の心臓の鼓動だけが聞こえたりして、私たちもかなり、緊張してしまいます。
と思ったら、やおら扉が開いて「スミマセン!遅れちゃって!」と大声で入って来たのが、何と渡辺篤史さん。本番中のランプがついていなかったのです。アーア、NGです。
篤史さん、その後、頭をかきかき、小さくなっていました。

撮影の合い間は、皆さん椅子に腰かけて談笑。多岐川さんがロケに出たいワ!としきりに言っていました。
可愛い犬がいるので持主を聞いてみたら、長谷直美さんの愛犬とのこと。

篤史さんと恭兵さんが台本をみながらセリフの勉強?
K「俺はおりるぜ」
A「俺はのるぜ」
K「おりるぜ」
A「のるぜ」・・・と、ポンポンとかけ合いが決まったところで、
K「アップダウンクイズじゃないんだから」
に思わず吹き出してしまいました。
A「それいいじゃない?いつ考えたのよ?」
K「ここに来る車の中でうかんだんだけどサ」
フーン、こうして面白くなっていくんだワ・・・と、私達も納得。

沖さんと小野寺さんのシーンが終わったところで、沖さんは衣装がえ。おつきの人がさっと衣装を差し出したところで、女性の方はシャットアウト!の沖さんの言葉に、あわててその場を立ち去り、スタッフルームまで来てしまいました。
中では三景さんや横谷さんが出を待ちながら談笑中。俳優さんもスタッフの方も遅くまでみなさん大変だナーと、つくづく感じつつ、撮影所の門を出たのは夜の10時すぎでした。(K)


雅 (1979年6月発行)

うっとうしい梅雨の晴れ間に、ふと青空がのぞいたりすると、真夏の太陽の訪れが近いことを思わせ、なんとなく心が軽くなってきます。
そろそろ海の恋しい季節になりますね。
後援会の皆様、お元気ですか?
四月から始まりました「俺たちは天使だ!」ご覧頂いているでしょうか。今までの私のイメージと違った役だとよく言われますが、おかげ様で大変好評で、スタッフ共々喜んでいます。天使はアドリブが多いんですョ。レギュラーのメンバーが思い思いに考えてきたセリフを台本に加えたりしてやっています。みんなのってやってくれるので、楽しいムードが画面に出ていると思いますが……如何でしょう。明るいコメディタッチでスマートな笑いを、日曜の夜に提供したいと心がけています。
並行して「細腕一代記」の撮影も進んでいますが、こちらは大正末期の書生の役でもあり、良江を愛しながらも一つの道に我が身を投じ、ある信念をもって生きようとする男の心情をあらわすことができれば……と、天使とは又違った役づくりをしているつもりです。
レギュラー二本の合い間に、四月末~五月にかけて、山本周五郎の「しじみ河岸」を原作にした時代劇スペシャル「江戸の波涛」を京都で撮って来ました。花房津之助という同心の役で、共演はいしだあゆみさんや田村高廣さん等。派手なアクションはありませんが、しっとりとした良い作品になったと思っています。
朝から夜半まで撮影に追われ、少しやせまして、皆様にはいろいろご心配頂いたお手紙を頂戴しましたが、もう大丈夫です。天使の撮影も後半に入り、これから盛夏に向かって、又ひと頑張りします。どうか今後ともよろしくご声援をお願い申し上げます。

一九七九・六月
沖雅也(サイン)


1979年10月 後援会報より

沖雅也さんと一緒に・・・グアムサマーホリディ!

後援会会員を対象に、ファンと一緒のグアム・ツアーが開催された。
参加できなかったことが26年経った今でも悔やまれる、ファン垂涎の旅行企画だ。
「俺たちは天使だ!」「体験時代」「甦る日々」とレギュラー出演ドラマに加え、「おしゃれ」「ズームイン朝」などのゲスト出演と多忙な日々を送っていた沖さんが、休日を一人静かに迎えることもなく、ファンサービスをしていたというのが感慨深い。
こんなにファンサービスをする芸能人がいるだろうか。十分売れてるのに。
仕事が忙しくて参加できなかった私だが、後援会報に掲載されたツアーの様子を読むと、人生は何を優先させて行動すべきか、今更ながらにしみじみと思われるのだった。


(1979年)8月22日
9時30分東京シティエアーターミナルに集合。揃ってリムジンバスに乗り、一路成田空港へ直行です。バスの中で、まず沖さんから一言、「帰ってくる時、参加された方一人一人の胸に良い思い出となって残るような・・・そんなツアーにしましょう」
成田着--空港内で待ち時間がかなりあったので、初めは遠慮がちだったファンの方も少しずつ打ち解けて、沖さんとの写真撮影が始まりました。
離陸後3時間・・・待望のグアム到着。
入国審査後、夕闇せまる景色を窓辺に見ながら、バスはコンチネンタルホテルへ。手を伸ばせば届く程に、空には無数の星が輝き、海に面したホテルの広い敷地内には、一階建てのコテージ式の部屋が建ち並んで、一晩中燃え続ける火が各部屋をつなぐ夜道を照らしています。・・・この日の夜はフリータイム。

8月23日

バスで市内観光。
恋人岬、自由の女神、スペイン広場等を巡り、行く先々で沖さんとの撮影会です。
まっ青な空!白い雲!恋人岬の上から臨む海は、湾曲した線を描いて、エメラルドグリーンに輝いています。まっかなハイビスカスの花の咲くスペイン広場では、全員で記念撮影。フルーツ、野菜等を売る市場を見学後、免税店でShoppingしてこのコースは終了です。
夜は第一ホテルでガーデンパーティ。黒いシルエットを描くやしの葉影を渡って、女性ボーカルの歌声が夜空に吸いこまれていきます。トロピカルドリンクにほんのり頬を染めた皆さん、バイキングを食べながら、各テーブルを廻る沖さんとお話ししたり、写真を撮ったり・・・楽しい南国の夜のひとときでした。

8月24日

一日フリータイムでしたが、オプショナルツアーで、ココス島へ行きました。メリーソの船着場には沖さんが来て下さり、「気をつけて行ってらっしゃい。」と手を振る沖さんに見送られて、無人の島、白浜のビーチと伝え聞くココス島へ。ところが、何と見渡す限り日本人ばかり・・・のココスで一泳ぎした後は、スーパーマーケット“ギブソン”を見学して、この日のツアーは終了。

8月25日
この日も終日フリータイム。
でも、ホテルから海に庭続きで行けるので、ほとんどの方が朝から海へ。

沖さんの部屋が海に面していることもあって、皆さんが遊んでいるところへ、沖さんもお仲間入りして、ビーチボールで遊んだり、遠浅の海を珊瑚礁のかなた(?)まで歩いてみたり・・・。波一つない海には、熱帯魚の泳ぐ姿もみられます。
珊瑚礁探検(?)の途中、ゴムぞうりを切ってしまったファンを気づかい、珊瑚礁の塊をドッコイショと持ちあげて、歩く道を作ってあげる沖さんの姿に、みんな感激してしまいました。
そして・・・夕焼けであたり一面金色に染まる頃、フジタホテルで、ポリネシアンショーをみながらのディナーが始まり、(これもオプショナルツアーでしたが、沖さん出席)ダイナミックな火の踊りに魅せられているうちに、グアム最後の夜はふけていきました。

8月26日
いよいよグアムともお別れ・・・です。
朝からあいにくの雨・・・でも今までずっと良いお天気だったのだから、文句は言いません。グアム発パンナム802便は、一人一人の胸に数々の思い出を宿して、一路日本へと向かいました。お疲れサマ!


1980年1月 後援会報より


遅ればせながら、明けましておめでとうございます。お正月をパリで過ごし、先日帰って来ました!
今年はそれほど寒くなかったので、フランス語の本を片手に、地下鉄を利用して大いに歩き廻ってきました。パリでの十日間あまりの滞在は、生活に密着したフランスの香りを、わずかでもはだで感じとれる気がします。

街角の小さなカフェで道行く人をぼんやり眺めながらコーヒーを飲んだ空白の時間、片言のフランス語とゼスチュアで花屋のマダムと話をしたこと、小さなシャンソニエで本場のシャンソンを聞いたり、天井の高いホテルの一室でタバコをくゆらしながら、これからの自分を考えたこと等、今いろいろな想い出が甦ってきます。このパリでの数々の体験が、何らかの形で今後の糧になることを信じ、今年もマイペースで頑張ります。
可能性の追求、それが与えられた使命の一つであるなら、私は貪欲に、全力をかけて役者としての道を歩いていきたいと思っています。
どうぞ本年もよろしくお願い致します。



日本で道を歩けば、必ずといって良いほど振り向かれた沖さんが、パリで人目を気にせずに日常空間を楽しんだことがうかがえる文章。よかったね、沖さん・・と思って読み進むと、今度は「可能性の追求」「使命」「貪欲」「全力」と力一杯な単語が並ぶ。
金八先生の人気で視聴率に翳りが出た「太陽にほえろ!」に四月から復帰することもあって、はりきっていたのかも知れない。せっかくパリでのんびりと羽を伸ばしたのだから、その調子でのんびりマイペースを追求してくれれば良かったのにと今更ながら思いながらも、こうして追いつめるように仕事をして行った沖さんだからこそ惹かれてしまうのも事実。
彼岸の彼方で、どうかのんびりとマイペースでお暮らし下さい。


1980年4月 後援会報より


寒かった冬もやっと終わり、ロケ先で見かける満開の桜の花に、暖かい春の訪れを感じます。
皆様、お元気でお過ごしですか?
今年の冬は風邪が猛威をふるい、大変でしたネ。私もちょっとやられましたが、すぐ治りまして(この強じんな身体!)今はロードワークをして身体を鍛えながら、毎日の仕事に取り組んでいます。
ご存知のように、今度「太陽にほえろ!」に再びレギュラーで出演することになり、二月に一週間程、沖縄、久米島へロケに行って来ました。顔馴染みのスタッフの姿もチラホラみえ、和気あいあいと、楽しい撮影でした。
記者会見の時にもお話ししましたが、今までのスコッチというのは、クールで、冷血な人間のように描かれていましたので、これからは、クールな中にも温かい人間性を感じさせる・・・そんなスコッチ像を演じてゆきたいと思っています。
又、「地球(てら)へ」という劇場用アニメで、初めてアテレコをやります。子供の頃から、SFとか夢のあるものが好きだったんですヨ。
それに、これはSFといっても、深い“人間愛”をうたいあげたものだと私は理解しています。動く絵に声を吹き込むという経験は初めてなので、不安はありますが、せいいっぱいベストをつくすのみです。
もう一本のレギュラー、「新・江戸の旋風(かぜ)」の方は、すっかりメンバーも意気投合した中で撮影も快調に進み、六月位まで撮る予定です。慣れない三味線のシーンがあったりして大変ですが、久しぶりにヅラをつけた時代劇で、殺陣の時は着物の裾をひるがえして暴れ回っています。
後援会の皆様とも、ぜひ近いうちに、多くの方が気軽に参加できる立食パーティーを・・・と考えてはいるのですが、何分にも一週間目一杯撮影がある状態で、なかなか実現できずにいます。この忙しい中にあっては、とにかく、役者として、少しでもいい仕事をすることが、皆様に喜んで頂けるたった一つの方法・・・だと思い、明日から又、頑張ります!
外は春!新鮮な空気を力一杯すって、お互い、せいいっぱいやりましょう!

一九八〇・四月
沖雅也


質問コーナー

Q:好きな食べ物は?
A:何でも食べますが、そうですネ、麺類が多いかなァ。ラーメンに酢を入れたり、タカナの油炒めをのせたりして。酢を入れるとネ、麺がひきしまって美味しいんですヨ。

Q:甘いものはお好きですか?
A:間食はしません。したがって甘いものもほとんど食べません。

Q:紅茶、コーヒー、どちらが好きですか?
A:coffee。毎朝、一杯飲んでから、仕事に出ます。インスタントじゃなく、ちゃんと入れてますヨ。

Q:お酒は飲まれますか?
A:ほとんど飲みません。夏の暑い時にビールをちょっと飲んだり、あとはレストランに行った時に、たまにワインを注文する程度かな。

Q:髪の毛の手入れは、特別に何かされているのですか?
A:何にも。ただ毎日シャンプーして、乾かすだけ。カットは行きつけの美容室でやってもらうけど、天然パーマですからネ。いたって簡単です。

Q:オーデコロンは使っていらっしゃいますか?
A:風呂あがりにネ、ムッシュエルメスを。

Q:洋服はほとんどサンローランというのは、本当ですか?
A:身体がでかいから、他に既製服で合うのがないんです。サンローランだったら、ほとんど直さないでいいから。

Q:どんな感じの洋服が多いですか?
A:仕事の時はスーツを着ることもあるけど、普段はラフな感じのものが多いなァ。

Q:サインはすべてご自分でなさるのですか?
A:はい。もちろん、すべて自筆です。

Q:ファンレターの返事はお忙しいから無理だとは思うのですが・・。
A:申し訳ありません。返事は勘弁して下さい。ファンの方の気持に答えるためには役者として少しでもいい仕事をして、それを見て頂く・・・それしかないと思うんです。そこのところをわかってほしい。

Q:もうファンの集いはやらないのでしょうか?
A:イエイエ、そんなことはありませんヨ。去年グァムツアーもやったけど、金額が高いし限定されてしまうでしょ。だからもっと安い会費で沢山の人が出席できるようなそんな集まりをネ、やりたいと思っています。



1980年11月 後援会報より

夏らしい夏も迎えないまま、気がついてみれば秋の真っ只中!女性であれば枯葉ちる道に一人たたずみ、しみじみと秋を想う‥‥なんてことになるでしょうが、仕事、仕事の私としましては、そのような気分に浸る時間もなく、多摩川ロケなどに出て、川面を渡る風の冷たさに触れた時、改めて四季の移りかわりを感じたりしています。
今、「江戸の朝焼け」の撮影の真っ最中ですが、時代劇が面白くなってきましてネ‥‥燃えています!従来の勧善懲悪のTV時代劇と違って、ひと味違った作品ですが、それだけに親子の絆を縦糸に、そこに生れるさまざまな人との心のふれあい、情愛といったものが描かれる、何というか非常に暖かみのある、人間臭いドラマなんですよネ。今は、この役にじっくり腰をすえて取り組み、皆さまに満足して頂ける「島佐太郎」でありたいと日夜頑張っていますので、どうぞお見逃しなきように!
「江戸」と「太陽」の撮影を縫って、「赤かぶ検事奮戦記」の撮影で飛騨高山にロケに行って来ましたが、都会を離れて素朴な空気に接するのもいいものですネ。日本人らしさを取り戻せるようで‥‥。それにしても、この仕事はかなり強行軍でしたので、九月はいささか疲れました。体力的にはかなり自信のある方なんですが‥‥。しかし、十月に入ってからは落ちつきましたし、今はもう大丈夫です。 これは今年最後の会報ですね。役者として歩き始めて十二年、まだまだこれからです。私を応援して下さる後援会の方、一人一人の気持を大切に頂いて、これからもひたすら頑張りますので、末永くよろしくお願い致します。

一九八〇・十一月>

質問コーナー

Q:ずばり、恋人はいますか?
A エー、今の私にとりましては、後援会の皆様が恋人です。特定の人はおりません。
Q:では、理想のタイプは?
A 理想ネェ。これ、よくファンレターに書いてあるけど、別にないナァ。最終的には人間、中身が大切ですからネ、ソウ思いませんか?
Q:“太陽にほえろ!”でよくしていらっしゃるブレスレットは何かイミがあるのですか?
A アーアレ、これもよくファンレターに書いてあるんだけど、別にイミはありません。自分で買いました。ハイ。
Q:来年のお正月も又外国で過ごされるのですか?
A ウン、行くつもりです。日本にいても神経休まらないしネ。パリはいいですヨ!チェルリー公園で、マイヨールやロダンの像を背にし、夕日の中たたずむ‥‥ナンテいいナァ‥‥。
(陰の声‥‥沖さんてロマンチスト!)
Q:占いとか信じる方ですか?
A ウーン、信じる時もあるし、気にしないこともありまして‥‥。そういえば、ある番組で手相を見てもらった時、生命線が長いから長生きするって言われました。
Q:とてもハダがきれいそうですが、何か美の秘訣は?
A イヤー、顔を洗っても何もしませんヨ。メンソレータムを少しつける位かナ。
(陰の声‥‥ナント、ウラヤマシイ!)
Q:本名が雑誌によって違うのですが‥‥。
A 日景城児‥‥ヒカゲ・ジョウジと読みます。


占いの話が出た時、沖さんは明らかにあの「三十までしか運命がない」と言われた手相占いのことを言っていると感じた。沖さんは敢えて生命線が長いから長生きするという肯定的な言葉を出している。沖さんはこの占いの結果を大変気にしていたとのことだが、こうしてポジティブな面だけをファンに伝えようとしていたことに希望を感じる。

最後のページの「事務局から」の欄に、沖さんのスケジュールは土日月水は「江戸の朝焼け」で、火木金は「太陽にほえろ!」とある。これでは休みがないではないか。おまけに、沖さんも書いているように合間を縫って「赤かぶ検事奮戦記」の撮影のために飛騨高山までロケに行っている。「いささか疲れました」の後すぐに「今はもう大丈夫です」と書き綴っているのが悲しい。
「江戸の朝焼け」に燃えているのは素晴らしいのだが、質問コーナーの「日本にいても神経休まらないしね」という言葉で、チラリと本音を漏らしている。
今(2006年現在)でこそ「ゆとり」だの「スローライフ」なんていう言葉が行き交うが、九十年代初頭に日本経済のバブルが崩壊するまでは、沖さんに限らず日本男児は走り続けて来た。男児だけでなく、当時働く女性であった私も残業残業で走り続け、休暇をとるというのもなかなか出来ないまま遊休がたまっていったものだ。
だから沖さんが働きすぎで可哀想というのは無理があるのかも知れないが、今回この挨拶文を打ち込んでいる時、「私を応援して下さる後援会の方、一人一人の気持を大切に頂いて、これからもひたすら頑張りますので」という文字を目にした時、不覚にも涙が流れてしまった。頑張らなくていいよ、沖さん。あなたの幸せが私の幸せなんだから」と伝える術がないまま、私は残りの人生を生きている。



1981年2月 後援会報より

一九八一年の幕開け、皆さんどのように迎えられましたか?
 私は、今“江戸の朝焼け”の最後の撮影に入っているところです。
 先日、オープンセットで撮影中に雪が降りまして、あたり一面ナント銀世界、江戸の街に降る白い雪がそれはきれいでしたョ。そのセットの中で一本の紅梅の木をみつけましてネ、雪の中、寒さにめげず凛として咲く姿はなかなかオツなものでした。
 寒さといえば、正月休みは例年の如くパリで過ごしたのですが、今年のパリは珍しく晴れの日が続いたもので、割と暖かかったんですョ。ただ仕事をギリギリまでやり、機上の人となったもので、成田を飛びたってから、やっとこれからパリへ行くんだ!という実感がわいてきたものです。
 正月のパリ‥‥私はノートルダム寺院に足を向けてみました。ステンドグラスが光り輝く寺院の中でくりひろげられる荘厳なミサ‥‥決して中を見ようとはしないシスターが持つ入れものに、コインを入れ、十字をきって祈るとき、敬虔なクリスチャンではないながらも、ひどく心が洗われる思いを味わいました。いつになく、すばらしい新年を迎えられたと思っています。
 頑固に古さを守り続けながら、それでも少しずつ変っていく街、そんなパリの表情を見守るのも楽しいものです。とにかく、いろんなイミで、今回はいい旅行でした。
二月一杯で「江戸の朝焼け」の仕事は終わり、三月からは「太陽にほえろ」と、新番組で「闇を斬れ」の撮影が松竹大船撮影所で始まります。
 “役者は観客の記憶にのみ生きる”なんて何かのセリフにありましたが、作っては消えてゆく映像の世界で、少しでも皆様の心の中、頭の中に残る仕事をしていきたい、夢を与え続けていけたら‥‥と思っています。
今年も、どうぞよろしくお願い致します。
一九八一年・二月

沖雅也


K「“江戸の朝焼け”、いよいよ終わりですネ」
沖「ウン‥‥アッという間だったネ」
K「なんだか寂しい気がします。もう少し長く続けばいいのに‥‥」
沖「おかげさまで、わりと評判よかったし、今までの時代劇とはちょっと違う色だったよネ」
K「何か、役づくりの上で苦心された点とかありますか?」
沖「アノネ、初めのうち、町人あがりの同心、それも下町育ちということで、セリフ廻しに苦労しました。わりと、こういうセリフの役ってやってないからネ」
K「今のお気持は?」
沖「ウーン、いろんなイミでネ、勉強になった。時代劇の芝居ってものの面白さ‥‥っていう、そんな感じかナ。共演者の方にも恵まれたし、今は佐太郎役と別れるのが‥‥寂しいネェ」
K「どうも、半年間お疲れさまでした!」

▽沖さんからひとこと▽
バレンタインデーには沢山のプレゼントをありがとう!紙上をかりて、お礼申し上げます。皆様の気持ちを食べさせて頂きました。甘かったナァ~~。


1981年12月 後援会報より

ただいま!ご心配をおかけしました!おかげさまで元気で11月末にハワイから戻ってきました。今は十二月十日位から入る「太陽にほえろ!」の撮影に向けて、身体の調子を整えているところです。
 今回の旅行は、晩秋のサンフランシスコ、ニューヨークからロサンゼルスに寄り、最後が常夏の国ハワイと、秋から夏へ正にひとっ飛びのスケジュール。枯葉を踏みしめながらのんびりと散策を楽しみ、時にはブラッと買い物をしたり‥‥といった時間に煩わされない、気ままな生活がそこにはありました。ただ高層ビルの立ち並ぶニューヨークよりは、趣があり、人間的なゆとりの感じられるシスコの方が、私の性にはあっているようでしたが‥‥。
 二週間以上滞在したハワイでは、更に開放感タップリで、明るい太陽の下で思う存分羽根を伸ばしてきました。ワイキキの浜辺で寝そべったり、マウイ島ではダイビングに挑戦したんですヨ。三十m潜って見た海底の美しさ!生まれて初めての経験なので、多少の危険はありましたが、これは度胸!で切り抜けました。そして、何といってもハイライトは、男であれば実弾射撃。何種類かの銃を使って三〇〇発撃ってきました。あの、撃った後の身体にドスンとくる重みは、実弾ならではの感覚であり、実に爽快でした。
 という訳で四十日間あまりの旅で十分な休養をとらせて頂き、心身共にリフレッシュして戻ることが出来ました。
このたび皆様には大変ご心配をおかけし、誠に申し訳なく思っています。又、数々のお見舞いを頂き、ありがとうございました。暖かい励ましのお手紙や、飾りきれない程の千羽鶴等を見ていると、ファンの皆様のお気持がありがたく、何としても頑張らねばと、又新たな闘志が湧いてきます。
この紙上をかりて、皆様に御礼申し上げます。
 来年は私も三十歳!幸い、すばらしい企画が待っていますので、これを機に大いにはばたこうと決意しています。
皆様には、どうぞ末永く変らぬご支援を賜りますよう、心からお願いする次第です。
 厳しい寒さが続きます。風邪などひかぬよう気をつけて、どうぞ良い年をお迎え下さい。今後とも、よろしくお願い申し上げます。
 一九八一年・十二月
 沖雅也(サイン)

1981年3月21日 沖雅也とファンの集い開催
於:品川プリンスホテル

今にも降り出しそうなあいにくの天気にもかあくぁらず、400名程の女性の熱気で、パーティ会場内の温度は急上昇。白いドアが開いてタキシード姿の沖さんが登場すると、悲鳴と溜め息と拍手の渦です。
「恒例でございますが沖雅也‥‥本物でございます」という沖さんの挨拶に場内大爆笑!
 乾杯の後は、早速質問コーナーです。「恋人いますか?」の質問に、あっけなく一言「いません」(会場内、エーッとザワザワ)「又、すぐそういう信用しないような顔をしてェ」と沖さん。
Q「どこで台本を覚えるのですか?」
「ウーン、自分の部屋です。筋を読んで‥‥あまり覚える作業はしません。稽古しているうちに入ります」
Q「プライベートルームは純日本風ですか?」
「イエ、洋間です。畳の部屋はありません」
Qどういうおそばが好きですか?」
「ラーメン、好きなんですヨネ。シナチクマーボー豆腐ラーメンとかネ」
エトセトラ。時間が足りなくて、一部の人しか質問出来ず、ゴメンナサイ。
 次は福引コーナー。沖さんから、レコード、パネル、プロマイド、台本等が当選者に手渡されます。
そして‥‥お待ちかね歌のプレゼント。まずはファンの方6名にお相手をお願いして、「銀座の恋の物語」と「別れても好きな人」をデュエット。楽しく歌った後は一人、ムードたっぷりに歌います。「くちなしの花」「何回歌っても疲れるネ」とは沖さんの弁。
 プログラムも後半に入り、ステージを降りた沖さんがお土産のサイン入りアドレス帳を一人一人の方に手渡しながら、会場内を廻ります。
フィナーレのビッグプレゼントは、何と沖さんの家で生れた子犬を抽選で1名の方に!「ジョージって呼んでやってね」と優しく頼む沖さん。
 時の経つのは早いもの、プログラムの最後は沖さんの皆様へのメッセージです。「これだけ多くの方が私の芝居なり、普段の俳優としての生活等をみててくれて、私のファのになってくれたということが、非常に、今日、嬉しかった。今後、俳優としてどこまで大きくなれるかわかりませんが、ウチのスタッフと一緒に、頑張れるところまで頑張っていきたいと思います。皆さんの人生において、僕という俳優が片時でも心の中にいたということが、俳優をやっていて一番嬉しいことだし、その心の中にいつまでも残れるような俳優になれるよう、明日から又心新たにやっていきたいと思っております。今日はどうもありがとうございました。」静かな、けれど深い感動の波が会場をつつみ、やがて嵐のような拍手となって会の幕切れを飾りました。


3月に楽しそうにファンの集いに出ていた沖さんだが、この数週間後には東名高速での事故を起こして精神的に不安定になり、入院している。台本を読んでいても内容が頭に入らないほど疲れていたとその時のことを説明していた沖さんだが、そんな時でもファンの集いを開催していたことには頭が下がる。最後の挨拶の「普段の俳優としての生活等をみてくれて、私のファンになってくれた」という言い回しに、妙な感動を覚えたことが記憶にある。ドラマの中の役を観てファンになっただけではないということを、沖さんが理解してくれているだけで、私は満足だったのだ。

冒頭の挨拶は、今読めば「もういいから、もっと休んで下さい」と言いたくなるような決死の意思表明だ。
うつ病や躁鬱病では旅行は勧められないと言われている。転地療養というが、戻って来た時のギャップが、かえってストレスになるということだ。
私は一時沖縄のある島にハマっていたことがある。まだ観光化されていない南国の大自然。どこまでも透明な海と色鮮やかな魚たち。夜になれば一歩先も見えない闇と満天の星空に、命が吹き返したような安らぎを覚えたものだが、東京に戻った時に真っ先に目に入る羽田のネオンの広告に、またすっかり気が滅入ってしまったことを思い出す。
翌日に仕事に行く足どりは以前より更に重く、健康的に日焼けした顔のまま入院してしまったこともある。急激な環境の変化は、ストレスになる。それを知っていた私は、沖さんがアメリカに休養の旅に出ることに危惧をおぼえた。何故、大好きなパリではなかったのだろう。アメリカの方がカラッと明るいイメージがあったのだろうか。

結局、沖さんはこの後「太陽にほえろ!」に復帰するが、殉職という形で降板せざるを得なかった。仕事が出来るような体調ではなかったのだ。


1982年8月 後援会報より

厳しい暑さが続いています。お元気ですか。
六月、大阪新歌舞伎座での「沖雅也特別公演」おかげさまで連日大入りのお客様を迎え、好評のうちに千秋楽の幕をおろすことができました。これも皆さまのお力添えがあればこそ‥‥本当に有難うございました。
舞台は何度かふんでいますが、何しろ座長としての芝居は初めてでしょう。初日早々のどの調子が悪くなり、声が出なくて楽屋で無念の涙を流した日もありました。ねんざした足に湿布をしながら殺陣をやった日もあったし、風邪をひきフラフラしながら舞台にたったこともありました。それでも二十六日間、何とか休演もせず、無事千秋楽を迎えられた時の感激!これは言葉でいいつくせない程の‥‥いわゆる感無量というヤツです。私の舞台をみに来て下さるお客様と心が通じあい、一体感となってその感動の高まりをおぼえた瞬間、舞台をやってよかった!心からそう思いました。
沖雅也、役者生活十四年といっても、テレビ、映画を主としてやってきたので、舞台役者としては、まだまだ駆け出しです。初回よりは二回目、二回目よりは三回目、少しずつでもお客様によくなったといわれるように、諸先輩にならって、経験をつみながら、あらゆることを勉強、吸収して、役者として大きく成長してゆきたいですネ。
来年八月、大阪新歌舞伎座での「沖雅也特別公演」も決まりました。今回の反省点も含めて、より楽しい舞台を‥‥といろいろ考えていますので、是非ご観劇下さい。
炎天下の大阪で、精一杯暴れまくりますヨ!
今、「必殺仕事人」のスペシャル(注1)撮影中で、東京と京都往復の生活を送っています。
夏は大好きですからネ。しばらくTVの画面に姿をあらわさなくても、私は元気でやっている‥‥と安心していて下さい(注2)。お互い、夏バテなどしないよう気をつけて、この夏も燃えて頑張りましょう!

一九八二年・八月
沖雅也(サイン)


注1:同年10月1日放送の「仕事人大集合」のこと。
注2:この年、初めてレギュラー番組がなかったが、トーク番組やバラエティー番組に数本出演している。

もちろん、沖さん自身が一番良くわかっていたことなのに、私は声が出ない沖さんのために、中華街で購入したのどの薬を事務所に送った。ファンとして心配してのことだが、これはむしろ失礼だったと、今になって後悔している。
私がこの舞台を観たのは6月4日と記憶している。舞台の欄にも書いた通り、開演後数日しか経っていないのに、沖さんの声は悲鳴を上げている状態だった。
歌えば声がひっくり返って、客席から笑いが起こった。地方からのツアーに組まれた観劇客がほとんどだったので、容赦なく笑う。
満足出来ない舞台が続いた中で、沖さんは“無念の涙を流した日”もあったのだ。それでも休演もせずに昼夜2回の公演を続けた。さすがは私が好きになった人だ。
念のため書いておくが、舞台は決して不評ではなかった。
お客さんは沖さんが登場すれば大喜びで拍手をし、若様になって出てくれば「男前ね」というため息があちこちから聞こえた。若様を連れ戻しに来た家来たちから隠れるシーンなどは観客も興奮し、「あっちあっち!」「そっち行ったらだめ!」と、ドリフのコントの時のような声が飛んだ。私は最初からハラハラし通しだったので、皆さんが楽しんでいることに、身内のようにほっとしたものだ。
翌年八月の舞台も決定したと書いてあるが、あれは最初から契約にあったようで、私が観に行った四日には「おかげさまで好評のため、来年八月の舞台も決定しました」と、沖さんが舞台上から発表したのを覚えている。


1983年1月 後援会報より

新年あけましておめでとうございます。
ちょっと御無沙汰をしてしまいましたが、皆さま、お元気ですか。
昨年は又又皆さまにご心配をかけてしまい、申し訳ありません。イャー、実に厄払いでもしたい心境デスヨ。忘れもしません、「つか版忠臣蔵」(注1)の本番を明日に控えた十一月二十一日の夜、急に胸をえぐられるような激痛に襲われましてネ。今はまるであの痛みがウソのように仕事をしていますが、あの時は正直言ってもうこれで終りか‥‥と思いましたヨ。部屋の中をのたうちまわって、実に苦しかったナァ。救急車で運ばれている間も仕事のことが気がかりで、後で聞いたら意識がもうろうとしているのに、口から出る言葉といったらセリフばかりだったとか‥‥。集中治療室という部屋に入れられて、一時は大変な騒ぎでした。(注2)
検査の結果、「胆石」だということがわかった時は、ホント、ホッとしましたネ。でも結局、次の日の本番は出られないのでキャンセルしたんですが、この役が久々に巡りあえて、のめり込んでいた役だっただけに残念でなりません。
ハードな稽古が続いて、過労になっていたのかもしれませんネ。役者は身体が資本‥‥健康の大切さを痛感した次第です。さいわい、手術の必要もないそうで、今はまったく快調です。
一九八三年があけました。今月半ばから京都で関西TVの時代劇レギュラーが入ります(注2)。又、八月は大阪・新歌舞伎座で「沖雅也特別公演」が決まっています。不運続きだった昨年にきっぱり別れを告げて、気分あらたに新しい仕事に取り組もうと思っています。芸能界に入って十五年、役者として生きることの難しさ、苦しさも充分味わって来ました。でも応援してくれるファンの皆さまがいる限り、その夢をこわさない様、この道を歩き続けていこう!と、今思っています。
どうぞ、本年も宜しくお願い致します。

一九八三年・一月
沖雅也(サイン)

注1:風間杜夫、松坂慶子の「蒲田行進曲」コンビを迎えて、テレビ東京で紅白歌合戦にぶつける番組として制作されたドラマ。沖さんの役は近松門左衛門。代役は萩原流行さんが演じた。
注2:入院後のインタビューはこちら(下の方)
同年4月から放送された「大奥」のこと。沖さんは徳川家光役で出演。

沖さんは生きようとしていた。
『不運続きだった昨年にきっぱり別れを告げて』『応援してくれるファンの皆さまがいる限り、その夢をこわさない様』などの言葉にそれが感じられる。
人の運命が生れた時から決められているのなら、沖さんはその運命の中でもがきながら、精一杯生きぬいた人だったのだろう。『役者として生きることの難しさ、苦しさも充分味わって来ました』と言いながら、最期はファンのために頑張ろうとしてくれていたことが胸を打つ。

<<1982年9月24日 目黒雅叙園ディナーショー スナップ>>



1983年4月 後援会報より

寒かった京都の撮影所にも春がやって来ました。後援会の皆さん、元気ですか?
私はこのところ“大奥”の撮影で、週の大半を京都で過ごす生活をしています。この“大奥”はご存じ関西テレビ25周年記念番組のひとつですが、この中で三代将軍“家光”を演じている私は黒一点ともいうべき存在で、女優陣に負けじと頑張っているわけです。時代劇では伝統ある東映京都撮影所での仕事なので、学ぶところも多いんですよネ。おかげさまで充実した毎日を送っています。
東京では、このところクイズ関係の番組(注1)からお声がかかることが多く、ひらめきと決断を要求されていますが、まあストレートに考えるものではわりと当たっているようなので気をよくしているところです。
先月、雑誌の座談会(注2:すてきな女性5月号)に出席したのですが、たまには違うジャンルの人とああやって話す機会を持つことも刺激になっていいですネ。かなり地を出して話しちゃった‥‥という感じですがどうでしょうか。
終了後、記者の人に「評論家になったら?」なんて言われてにが笑い‥‥でした。しかし、これからもこういう機会があったら、どんどん出席してみたいと思っています。
4月、新しい生活が始まる時期で、皆さんも何かと多忙なこととは思いますが、今のフレッシュな気持ちを忘れず、何事にもぶつかっていくチャレンジ精神で頑張って下さい。
3月27日“ファンの集い”では、久しぶりに皆さんと会えて楽しいひとときでした。6月25日、関西の皆さんと会えるのを楽しみにしています。8月の舞台の準備も着々と進んでいます。夏休みでもあるし、お誘い合わせの上、是非ご観劇下さい。

一九八三年・四月

沖雅也(サイン)

注1:
「エッ!うそ~ホント!?」1月19日放送
「クイズ面白ゼミナール」2月13日&5月10日放送
「なるほどザ・ワールド」5月10日放送
注2:「すてきな女性5月号」 ) 記事はこちら(下の方)

明るい挨拶で始まるこの後援会報が届いた時、どんなに嬉しかったか。すでに8月の新歌舞伎座公演「一心太助」の切符も予約し、その日を待ちきれない気持ちでいた私だが、すっきりと痩せた沖さんの写真を見ながら、それでも以前とは違う笑顔が気になってはいた。
3月に開かれたファンの集いの写真が並べられ、
「“ストレンジャー”の曲にのって沖さん登場!」
「“麗人”“津軽海峡冬景色”“青春時代”とソロ3曲を熱唱」
「そして“三年目の浮気”と“別れても好きな人”をデュエット」
「質問コーナーでは色々な質問が次々‥‥」
「“太陽にほえろ”でおなじみの友直子さんが応援に来て下さいました。」と、楽しそうな添え書きがある。
“青春時代”はともかくとして、“麗人”と“津軽海峡冬景色”を選曲するとは、よほど歌に自信があったものと思われる(?)。

大阪難波・花月劇場ゲスト出演の写真も掲載されている。
「三月三十一日、京都での『大奥』の撮影の合い間をぬって、今いくよ・くるよ十周年記念公演『開演ベルは鈴鳴りに』と『ファイティングショー』にゲスト出演しました。忙しいスケジュールにもかかわらず、さわやかな笑顔をみせてくれました。」とある。確かに爽やかな笑顔だが、病気になる前の笑顔を知っている者にとっては、どこかぎこちなさの残るものに見えた。一心太助のパネル写真に至っては、ソフトフォーカスで撮影されているので、かえって気になる。
他にも「寛永御前試合」「素浪人罷り通る」「大奥犯科帖」「幻の結婚式」「蒲田行進曲」「天使の復讐」など単発のドラマの撮影が相次いでいたはずなのに、花月劇場にゲスト出演、ファンの集い、ワイドショー出演と、病み上がりとは思えないスケジュールだ。もう少し仕事を選べなかったのだろうか。休んでいた間の遅れを取り戻すかのように仕事を入れていた沖さん。「おかげさまで充実した日々を送っています」という言葉を信じて、私は8月の舞台を心待ちにしていた。



おまけ


The Offing Vol.6 -1981年5月

「俺たちは天使だ!」でまたもやティーンの心を掴んだ沖さんには、新たなファンが登場した。事務所が運営する後援会の他に、個人でファンクラブを運営するグループが登場し、私も会員となった。運営スタッフは沖さんの事務所とも連絡をとり、事務所からは写真やスケジュールの提供もあった。このファンクラブのスタッフは撮影所にも出入りして、沖さんから直接お話をうかがったり、共演者のコメントをとったりして会報を発行してくれたので、当時はおっかけが出来なかった私にはありがたいものだった。
残念なことに沖さんが休養をとっている頃に解散となったが、今でも会報を保存しているので、貴重な記事をここで紹介する。

沖さんへの質問3つと自筆の回答

じゃ~ん 沖さんへの質問を三つほどとりあげてみました。
№1 沖さんって無口なのですか?テレビでもすごーく物静かであまり口を開かないんですものー☆




№2 沖さんの理想の女性ってどう人(原文ママ)ですか?ものすごーく興味あるのですがー?




№3 テレビのイメージが(俺天-と太陽-)ちがいすぎるんです。そこで1つ沖さんの性格って自分で言うとどんなのかしら?






お客さまコーナー ☆神田正輝さん(ドック刑事)の巻☆

--神田さんから見た沖さんってどんな感じの人なのかなぁ--
「とってもしっかりした役者さんです。沖さんとは『俺たちは天使だ!』の時もいっしょの仕事だったし、今もいっしょでしょ!?
とても仲がいいんです。ぼくの考え方とにているところがあるのよネッ!
沖さんは仕事に対して考え方はしっかりしているし、男としても、努力はするし、とてもすぐれた人だと思います」


この会報が送られて来る少し前に沖さんは交通事故を起こして休養をしていたので、事故の少し前の自筆の文字である。
「に」が「い」に見えるとか、「ん」がはねるなあとか、あんまり字は上手じゃないのねとか思いつつも、とても不安だった時期のことが思い出される。
しかし、共演者が口をそろえて仕事熱心な人だと評する沖さんは、やはり“優れた人”だったのだろう。

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